賃金等請求権の消滅時効の在り方について

1 問題の所在

    議論の発端は民法の改正です。現行の民法の規定は、原則、債権は10年間行使しないときは消滅することになっていました。例外として短期消滅時効という制度があり、使用人の給料に係る債権については、1年間行使しないときは消滅という規定が設けられていました。この民法の短期消滅時効の特別法といたしまして、労働基準法における賃金等請求権の消滅時効の関連規定が設けられています。

   具体的には、労働基準法第115条は、賃金、災害補償、その他の請求権は2年間行使しないときは消滅するとされています。労働基準法ができた昭和22年、民法の短期消滅時効と比較して、労働者にとって重要な請求権の消滅時効が民法の1年ではその保護に欠けるが、10年では使用者に酷に過ぎ、取引安全に及ぼす影響も少なくないため、2年とされたという経過がありました。なお、このうち、退職手当の請求権につきましては、昭和62年に法律改正がされて、一律2年だったのを退職手当だけ5年に現在は引き上げられています。

   あわせて、労働基準法の規定上、賃金台帳などの書類は3年間保存しなければならない旨の規定があります。

   ところが、民法が改正されました。平成29年の6月に改正民法が成立して、2020年、来年4月に施行となっています。

改正後の民法につきましては、時効の簡素化、統一化のために、使用人の給料などに係る短期消滅時効は廃止した上で、債権は、

1 権利を行使することができることを知ったとき(主観的起算点)から5年間、

2 権利を行使することができるとき(客観的起算点)から10年間、

この2種類に一本化されました。

   この民法の改正を踏まえて、特別法たる労働基準法の扱いはどうすべきかを検討するために設けられたのが「賃金等請求権の消滅時効の在り方に関する検討会」でした。この検討会は、平成29年6月の改正民法の成立を受けて、その年の12月に設置されました。

この検討会の最終会が令和元年6月13日に行われて、その場で検討会の論点の整理案が示されました。

 

2 検討会の整理案

 検討会の整理案は次のような内容です。

 

⑴「賃金等請求権の消滅時効の起算点、消滅時効期間について」。

「以下のような課題などを踏まえ、速やかに労働政策審議会で議論すべき」として「消滅時効期間を延長することにより、企業の適正な労務管理が促進される可能性等を踏まえると、将来にわたり消滅時効期間を2年のまま維持する合理性は乏しく、労働者の権利を拡充する方向で一定の見直しが必要ではないかと考えられる」。

「ただし、労使の意見に隔たりが大きい現状も踏まえ、消滅時効規定が労使関係における早期の法的安定性の役割を果たしていることや、大量かつ定期的に発生するといった賃金債権の特殊性に加え、労働時間管理の実態やそのあり方、仮に消滅時効期間を見直す場合の企業における影響やコストについても留意し、具体的な消滅時効期間については引き続き検討が必要」

起算点に関しては、これは民法の改正を踏まえた形で「新たに主観的起算点を設けることとした場合、どのような場合がそれに当たるのか専門家でないと分からず、労使で新たな紛争が生じるおそれ」があるのではないかというようなまとめがされています。

 

⑵「年次有給休暇と、災害補償請求権の消滅時効期間について」

主に2つの意見がありました。まず、年休ですが、「年次有給休暇の繰越期間を長くした場合、年次有給休暇の取得率の向上という政策の方向性に逆行するおそれがあることから、必ずしも賃金請求権と同様の取扱いを行う必要性がないとの考え方でおおむね意見の一致がみられる」という整理がされました。

災害補償については、「仮に災害補償請求権の消滅時効期間を見直す場合、労災保険や他の社会保険制度の消滅時効期間をどう考えるかが課題」であるという整理がされました。

 

⑶「記録の保存期間について」

公訴時効は、労働基準法違反である場合は原則として3年とになりますが、「公訴時効との関係や使用者の負担等を踏まえつつ、賃金請求権の消滅時効期間のあり方と合わせて検討することが適当」ではないかというまとめをしています。

 

⑷「見直しの時期、施行期日等」

民法改正の施行期日は来年の4月1日です。「民法改正の施行期日も念頭に置きつつ」、来年(2020年)4月は中小企業の労働時間の上限規制や大企業の同一労働同一賃金の施行などありますが、「働き方改革法の施行に伴う企業の労務管理の負担の増大も踏まえ、見直し時期や施行期日について速やかに労働政策審議会で検討すべき」とされています。

「仮に見直しを行う場合の経過措置については、以下のいずれかの方法が考えられ」ということで、両論を併記しています。

 

1つ目の経過措置の考え方は「民法改正の経過措置と同様に、労働契約の締結日を基準に考える方法」

2つ目は「賃金等請求権の特性等も踏まえ、賃金等請求権の発生日を基準に考える方法」、

 

この2つの方法を両論併記しています。

 

3 労政審議会の議論

 令和元年2019年7月1日 第153回労働政策審議会労働条件分科会では、以下の豊国を踏まえ次のような議論がありました。

 

労働者代表の川野秀樹委員(JAM副書記長)からは次のような発言ありました。

 

○川野委員 ありがとうございます。

御説明いただいた資料No.4の内容について、考え方をお話しさせていただければと思います。御説明いただいたとおりでございますけれども、改正前民法において使用人の給料に係る債権が1年で消滅するとされていたことは労働者保護の観点に欠けるということから、労働基準法第115条に定める賃金等請求権の消滅時効は、民法の適用を排除して、1年を上回る2年とした経緯があります。

また、会社の倒産や解雇があった際に、未払い賃金、いわゆる労働債権の請求のために労働者側が資料を整理して労働審判や訴訟の準備をしますが、その準備においては数カ月から半年以上かかる場合もあって、そうしたことを踏まえると、現行の2年の消滅時効期間では短いという声が聞かれます。

今回、民法改正によって消滅時効期間が5年と10年に整理されましたが、労基法上の労働者保護という趣旨を踏まえれば、一般的債権の時効を定めた民法の消滅時効期間を労基法が下回るということはあってはならないと考えているところでございまして、労働関係の債権についても改正民法同様の5年とすべきであると考えるところでございます。

また、2017年の民法改正の決定から2年が経過して、施行期日の2020年4月が目前に迫る状況でございます。ようやく労基法上の消滅時効について論点整理がなされたわけでございますが、時間がかかり過ぎていると言わざるを得ないと思っています。早急に改正の議論を進めて、改正民法施行と同時に5年の消滅時効期間の適用が受けられるようにすべきであると考えているところでございます。

 

これに対し使用者代表委員の輪島忍委員((一社)日本経済団体連合会労働法制本部長)は次のように発言しています。

 

○輪島委員 初めて見るというわけではないでしょうけれども、最終的なものということを踏まえて発言したいと思います。先ほど分科会長がお取りまとめといいますか、解説していただいたとおりだと思っておりまして、今後、本格的に労働条件分科会で議論するということでございますので、使用者側としては真摯に対応してまいりたいと思っております。

そこで、きょうは、参考資料No.4の16ページにございますけれども、昨年6月26日にこの検討会でヒアリングということで私ども経団連としても意見を述べさせていただきましたので、繰り返しになりますが、懸念事項ということで述べさせていただきたいと思います。

第1に、賃金等請求権の消滅時効期間を延長した場合には、賃金台帳、それに関連する記録の保存期間も延長するということになりますので、それによるコストの増加が企業経営に非常に大きく影響するのではないかと心配しているということでございます。

第2に、実際に労働者から未払い賃金の請求がなされた場合に、時間外労働等の過去の業務の指示の有無とか、さまざまな状況の確認が必要になるということで、この場合に、過去にさかのぼって時間外労働、休日労働の有無を確認するということは、単に保存義務があります賃金台帳等を確認するだけではなくて、メールの送受信や入退館の記録であるとか、法律で求められている以上のさまざまなものを残しておかなければ対応できないという、実務的には非常に難しい点があるのではないか。

加えて、組織再編が非常に激しい時期でございまして、例えば異動、転勤、退職等、5年前のそのセクションといいますか、関係する職場というものも、当時のことを知る人が誰もいないということもあるのではないか。5年、10年さかのぼって事実を確認するということは現実的ではないのではないかと考えております。

そういう意味で、現行の規定は、実務では定着していると考えておりまして、実際にそんなに不都合があるということでもないと思いますので、労働者保護という点についてもそれなりに担保されているのではないかと考えているところでございます。

最後に、現行の規定は、賃金債権の特殊性を踏まえて、企業の取引の安全性、労働者保護の双方に配慮されたものということで、民法では先ほど来御説明のあったとおりでありますが、民法とは独立してそのあり方を検討することも必要なのではないかと考えているところです。

以上です。

 

労働者代表委員の村上陽子委員(日本労働組合総連合会総合労働局長)からは次のような発言がありました。

 

○村上委員 先ほど川野委員からも申し上げたのですけれども、賃金請求権の消滅時効について、私どももヒアリングで対応させていただいております。今、輪島委員から使用者側の立場で懸念点などをおっしゃいましたけれども、その点に関しても改めて、繰り返しになりますが、申し上げておきたいと思います。

主に輪島委員からは、資料や記録などの保管やデータの問題についての御指摘がありました。その点に関しましては、参考資料No.4の8ページにもございますが、ほかの運送費などでも短期消滅時効は廃止されておりまして、その点に関して、事業者側から負担を軽くするために短期消滅時効を残すべきであるという意見は出されておりません。労働に限って負担が重くなるというのはどうなのかということはございます。賃金だけ、データの保管が必要になってくるという話ではないのではないでしょうか。

また、現行の2年が定着しているという御指摘につきましては、確かに2年でずっと運用されておりますが、労働組合のない職場で解雇された労働者からの相談などに対応しておりますと、解雇されてしばらくたってから相談などに来られて、労働組合に入ったり、あるいは弁護士に相談したりして、ようやく申し立てをするときには半年ぐらい経過していることがよくある話でございまして、そうすると、残り1年半ぐらいしか請求できないということがケースとしてはよく見られるところでございます。働いた対価として、本来、支払われるべきものが支払われていないということが課題でございますので、その点、やはり早く民法と同様の5年にするべきという考え方でございます。

また、要望としては、2017年に民法改正が成立したわけですが、施行は2020年4月ということで、1年を切っているところでございまして、このままで2020年4月に賃金債権に関する労基法の改正も一緒に施行できるのかというと、大変不安があるところでございます。ぜひ早急に検討を開始していただくとともに、論点を整理して議論しやすいようにしていただきたいという要望でございます。

以上です。

 

使用者代表委員の佐久間一浩委員(全国中小企業団体中央会事務局次長・労働政策部長)からは次の発言がありました。

 

○佐久間委員 ありがとうございます。

これから労働条件分科会で議論が進んでいくと思います。ただ、私ども中小企業としましても、賃金債権が5年以上になってくるとなると、先ほどの事務の関係、賃金債権以外のものでも同じだということがありますけれども、実際にはデータで管理している中小企業ばかりではありません。紙ベースでファイルをつづってやっているところもいっぱいあると思います。そこの中で、中小企業の場合、担当者はいろいろなことを担当したり、また流動性が多い職場ということもあれば、過去のものがどれだけの期間、存在しているか、非常に疑問なところでございます。また、これが延びたからといって、5年以上のものをいろいろさかのぼってくると、そこまでなかなか見切れないということが出てくるのではないかと思っています。

私どもは、労働側にとっては長ければそれなりの対応ができると思いますけれども、今までの実態等々を考えれば現状どおりということを望みたいと考えております。紙で管理していること、それから、労使間でも円滑に有効に機能していくためにも話し合いを持たなければいけないということもあると思います。書類が整っていない、そして期間が単純に5年になれば事務作業等も2.5倍になってしまいますから、それによって税理士、社会保険労務士、弁護士にお互いが依頼する費用というのも2.5倍以上になってくることになります。かなりの費用の問題も出てくると思いますし、賃金債権は優先的な債権でございますので、こういう債権があれば必ず優先的に払わなければいけないということはあると思いますが、それによってほかの債権者に対しても支払いがおくれてくる、また、支払いができなくなることもあると思います。そういうことで2年の現状どおりというのをぜひお願いしたいと考えております。

以上でございます。

 

さらに使用者代表委員の鳥澤加津志委員((株)CKK代表取締役)から次のような発言がありました。

 

○鳥澤委員 今回から参加させていただきます鳥澤でございます。

私は、本当に小さな会社でございますので、今、佐久間さんが言ったことと同じなのですが、中小企業の立場としてお話をさせていただきたいと思っています。

3点あるのですが、まず1点目は、先ほど言われましたように、中小企業の多くが未だに紙ベースで行っております。実際、うちの会社でもそれをデータ化しようという動きはあるのですが、データ化する人材がいない。そこになかなか手をつけられないというのが非常に大きな問題でございます。また、期間が延びることによって保管の場所等を含めて、いろんなものが、今、書類のハンディがあるのですが、増えていくのは大変というのがございます。

2点目が、労働者から未払い賃金の支払い請求があった場合の対応についてです。そういった問題になるのは恐らく簡単にできるような問題ではないと思います。複雑な経緯、要因がある場合ということでございますので、期間が長くなればなるほど、お互いにとって、記憶をさかのぼる、書類をさかのぼる、ここが非常に難しい作業になってくるのではないかと思っております。先ほどの話にもありましたように、5年となると担当がいなくなってくるのと同時に、今、中小企業同士のM&Aも非常に増えてきておりまして、5年たつと企業そのものがどこかに変わっているという状況も出てきております。そういったことを踏まえますと、期間が長くなるというのは、ある一定のところの期間で、今の2年というのはいいところではないかと思っております。

3点目は、有給休暇の問題でございます。これについてはまだどういう形がいいのかというのは書いてありませんでしたが、単純な考え方として、これも5年間になると、年20日として、5日間は必ず取得義務があるわけですけれども、残り15日間の4年間分、プラスその年と考えると、最大80日分を一挙に取得することも出てきます。果たして中小企業にとって、一人の方が80日間有給休暇をとったときに対応ができるほどの体力があるのかというと、非常に難しいと思っております。

中小企業の立ち位置を改めてお話しさせていただくと、なぜ存在できているのかということで言えば、中小企業というのは間接部門の人員が少ない、費用が少ないから存在できているのだと思っております。一般的な大企業に比べて、例えば事務職だとか、本業以外の部分にかかる人数が少ないから運営できているというのがあります。企業によっては、社長一人が全て事務職を行って、ほかの社員は全員、事業部門となってくると、一人にかかる負担が非常に大きいのが現状でございます。

こういった中で、さまざまな事務処理が増えていくということは非常に厳しくなってくるのと同時に、消滅時効の延長だけではなく、働き方改革によって事務職の負担が非常にふえているというのが現実でございますので、ぜひとも今後の延長に関しては深い配慮をいただきたいと思っています。特に労働基準法というのは罰則規定でございますので、民法とは性格が異なるものだと私は思っております。ぜひ、中小企業の活力が損なわれないようなことに留意していただきたいと思います。

以上でございます。

 

村上委員が

 

「2017年に民法改正が成立したわけですが、施行は2020年4月ということで、1年を切っているところでございまして、このままで2020年4月に賃金債権に関する労基法の改正も一緒に施行できるのかというと、大変不安があるところでございます。ぜひ早急に検討を開始していただくとともに、論点を整理して議論しやすいようにしていただきたいという要望でございます。」

 

と述べているように、民法改正の施行が間近であり、民法改正の趣旨からすれば、賃金債権の時効だけが2年というのは合理性がありません。来年4月の段階で間に合いませんでしたというのでは、民法改正に例外を認めることになってしまいます。

 

早期に労働政策審議会での議論が進められることが望まれます。